TCG総合研究所

蘆薈を中心に三人のゲーマーがCOJを主にTCGを研究する

エージェントアカデミー 上手い人 強い人

 -柔と豪は表裏一体。故に交わることの無い存在なのだ。その融合に挑むことが挑戦なのかもしれぬ-

さて、今日も無事に皆とお会いできたことに感謝する。
今日扱うのは“プレイヤーの柔と豪”すなわち“上手さ・巧みさ”と“強さ”の違いだ。
対戦ゲームにおいて良く大きなテーマとして取り上げられるが、私もこのテーマに踊らされる一人だ。

対戦ゲームが“上手な人”も“強い人”もあるラインから見た場合に、とても安定して高い勝率をもつ。
しかし、彼らは本質的に違うものだ。
上手いプレイヤーは強固な壁を突き破るしたたかさをもたないし、強いプレイヤーはとっさの状況で無駄足を踏んでしまうだろう。

柔豪両立してこその極みなのだ。
しかし、我々は基本的にはどちらかに片寄る。
今の自分はどちらなのか、あるいはどちらでありたいのか、それを今一度自問してもいいのではなかろうか?

・強いということ

では、強いということはどう言うことなのか。
かつて私の経験したことから探ってみよう。
実際には違うゲームだが、COJに置き換えて話すことにする。

私は友人と店内対戦することが日課のようなものだった。あるとき、新しいアーキタイプが発掘され、二人で試してみることにした。
彼は素早くその時々に要求されるプレイングを発見し、的確に私を打ちのめした。彼はしばらくすると違う新デッキを使い、また同じように必要なプレイングを繰り返す。 
彼は“勝つために必要なこと”を本能的に知っていて、それを忠実に現状に割り当てて対処していたのだ。
デッキが変わったところで、勝ち負けの判定法が変わるわけではないので、彼は延々と勝ち続けるのだ。

しかし、時として彼のプレイングは真っ直ぐ過ぎることがあった。
彼との組み手はいわばリピート再生で、同じような場面で同じように対応され続けるだけだ。
時としてそれはとても強引で、エレガンスに欠け、あるときはおそらく見ていても相手していても“つまらない”展開を押し付けてくることもあった。
まさに“勝つとはどういうことか”を私に叩きつけてきたのである。私は確かに彼には勝てなかったし、勝ちたくて仕方がなかったが、同時に-誤解を恐れずに告白すれば-彼のようなクレバーな人間性が好きになりきれず、そうなりたいとは思わなかった。


・上手いということ

しばらくして私は相も変わらず、くだんのデッキを微調整を繰り返して使用していた。熟練度があがり、先述の彼ほどではないが必要なことを理解して勝率も、高くなってきた。
そんなとき、私の後ろで見ていたプレイヤー達が口々に言うのである。
「えっそんな返しがあるの?」「そのプレイングはおかしい、引き頼りすぎる」
前者は-実は後者もだ-私には必然なプレイングだったのだが、このような反応を得たのだ。
何が起こったのだろう?
答えは先に述べていた“熟練度”にあった。私はそのデッキを隅から隅まで自分に馴染ませていて、カードの投入枚数からくる“引ける確率”まで体感で理解していたのだ。(極端な例えだが“デッキが残り二枚の時の《ハッパロイド》が持ってくるカード”くらいは皆も読めるだろう)
そして、細かいステータスやデッキのスペック、可能不可能までを把握していたので、“《チェインフレイム》がわかりやすい回答の盤面でも、腐りやすい《光鷹丸》を使って《チェインフレイム》が温存できる《光鷹丸》+軽減《ハデス》”というような「組合わせ処理」を選択できたのだ。(たとえが悪くて申し訳ない)

こういう“勝負事のシステム”ではなくて“デッキの理解度”で勝負できるような人が「上手い」とか、「巧みな」プレイヤーなのではないだろうか?

もちろん、このようなタイプが結果を出すことは少ないし、強いプレイヤーの方が結局は「勝てる」のである。
とくにカードゲームというものはめまぐるしく“メタが変わる”ために熟練度というものは後回しになりやすいのである。


その分、“巧い”プレイヤーのプレイングは華があり、また“納得させられてしまう論理”も持ち合わせているのだ。

今回はさも、私が“上手い”かのように語ったが実際はそうではなく、私はどちらかというと“上手い”を目指して精進しておりたまたま結果がでた期間の話をしているにすぎない。

・それぞれの欠点

さて、私のとても主観的な話はこの辺でおいといて、それぞれの欠点をあげていこう。欠点といっても“それぞれの違いからくる盲点”のようなものだ。

強いプレイヤーについて、私生活まで過剰にストイックなわけではないと思うのであくまでゲームでの話をすると、“勝つこと以外への視野の狭さ”が盲点といえる。彼らにとってゲームとは“勝つもの”であるからして“必ずしも勝つことに焦点がないものや楽観的なもの”は受け付けないのだ。(オリボのことではなく、テーマそのものが“ファン志向なもの”についてだ)
なので、デッキジプシーであることが多く、また理屈的な部分に疎い傾向がある。彼らにとって重要でわかっていることは、あくまで“勝つためにはどうしたらいいか”なのだ。
極端な話“イカサマ”すらその範疇として検討するかもしれない。
勝てば官軍なのだから。


対して、巧みなプレイヤーは時として“キレイだ”と表現される。
あるゲームにおける私がそうだった。
トッププレイヤーともそれなりに渡り合い、かと思えば中級者や場合によっては初心者の“ミラクルプレイ”に見事に翻弄され苦戦する私はとても悩んだのだが、ある友人が一言気付きをくれた。

「君のプレイングはとてもキレイで模範的だ。模範的過ぎて怖くない。君がたった一度荒らしを試みたら我々は確実に不意を突かれてその“ムリ”を通してしまうだろう」と。

つまりこれこそが“上手いプレイヤー”を志す者の盲点なのだ。


私が中立な立場ではないので偏重な内容に、なってしまって申し訳ないが誤解されないように言っておくと、私の“強い”すなわち“勝てる”人間への尊敬と羨望はかなり根強い。

自分は、どちら側の人間で、どちらに共鳴し、その長所・短所をどう見るのか。
きっと、とても壮大で興味深い探求が始まるに違いない。